昭和57年07月01日 月次祭 二代



 只今信徒会長がご挨拶の中に申し上げておりました様に、確かに私共は親先生を通して神様の思いを分かり、神様の願いを聴くことが出来ると。これ程しに神様の願いを十全に、私達に説いて下さる方は無かろうと、私は確信する訳ですが。先日光橋先生が三橋先生の初代であります、三橋寿一郎という先生に親先生が、あそこ半年間位でしょか毎日、あのう親先生の御理解なり思いを寄せた手紙。
 手紙と言うか封書をその当時送られてまして、ちょうど今から数えて見ますと、昭和29年28年ですから約30年ぐらい前のやつですけれども、その中の一つに、私は悲しいまでも天地の思いを知りたいと切実に願うという一節があります。もうその当時からやはり親先生として、本当に神様の心が分かりたい親の思いがわかりたい。本当の事が分かりたいと言う一心で、親先生の御信心が今日まで貫いてこられておると言う事です。私は最近もう切実に思うんですが。
 ほんとうにあのうおかげの信心から、本当に一つ親の思いが分かりたいと言う信心に、切り替えられなければ、何ねん何十年信心が続けられても馬鹿らしいと思うんですよ。それこそ何時まで経っても貰い水的信心から、ひとつどうぞあなたの心の中を掘り返してみてくださいと、あなたの心の中にそれこそ尽きぬおかげの泉が、あなたの心の中にあるんですよと、親先生がもうそれこそ口が酸っぱくなるほどに仰っておる訳です。もう一つそのう中のまぁそのう一緒に入って田中の文章の中に。
 御理解の中にですね。よく天にまかせよ地に縋れと言うれども、いわゆる天とは神様、神様には任せるものだと、地に縋るものだ地とは心なんだと、だから神様におかげ下さいおかげ下さいっち手縋ったって何にもならんのだよと。縋るならば自分の心に縋りなさい。という意味合いの事を書いておられる。30年前です。本当にだから私はあのう親先生の御理解と言うか本当なものはそれこそ、どんなに時代が変わってもどんなに時代背景が変わっても、今に尚通用するものがあると言う事を改めて痛感したんですが。
 是非これはまた機会があったらあのう文章にして印刷物にして、皆さんのお手元に配りたいと思いますけれど。今日先ほど突然私しが若先生ちょっと部屋に来てくれと言う事で、親先生の寝室に呼ばれました。で夕方まで研修を終わられまして4時のおひけになって、さぁお風呂に入られて食しょうとというまでは、大変お元気に普段通りなご様子であられたんですけども、急にあのう体の容態が悪くなられまして、それこそ大変なあのうまぁ脂汗でしょうねぇ汗を掻かれて。
 もう本当にもうぐったりなっておられるんです。で今日の祭主をあなたおまえが、あんたして下しと言う事で、まぁ私が今日このようにおかげ頂く事になった訳ですけれども、本当にあのう不思議なんですね、それこそ今までに無い容態の悪さなんですけでも。私が全然こう動揺しないんですね。はぁそりゃどうするじゃろうかと、言う様なものがないんです。ならあのうはい分かりましたって、私はそのままこの御っ結界につかして頂いた訳ですけでも。
 お互い本当にそれこそ天照大御神様が天岩戸に隠れられたら、お互いに目の前が真っ暗になるような事じゃ相済まんと思うんですね。お互いの中に本当に一人一人の中に信心の光を頂いてこなければ、本当にこの信心を頂いとけば大丈夫と言う様なものを頂いとかなきゃ。先日私の姪に当たります池尻泰子の10年の式年祭が奉仕されまして、私が祭主仕えさして頂いたんですが、その時に神様の方でお知らせ頂きましたのは、あれは土器で出来ましたあのうガラガラ柄という鈴みたいなのがありますね。
 あれが土幣というんですかね土で出来たやつなんです。ガラガラガラガラというあれを頂くんです。あれぇどんなことかなぁと思よぅりましたら、誰かが丁度その時にお参りなったんでしょう、その方の財布かなんかにまぁ鈴が着けてあられたんですね。チャリンチャリンチャリンチャリンと音がするんですよ。はぁそうかあのうその時始めて気付かして頂いたんですけれども、例えばなら私達が信心を落とした場合、あのう例えば財布なら財布に鈴付けておりますとチャランチャランと音がするですね。
 私達がなら御霊さなら御霊様があの世で、本当にいよいよもう土になることに極まったという印だろう。それこそ私はもう四六時中土の信心を身につけ取りますよと言う事を、私に教えて下さったんだろうと思うんです。お互い鈴付けておりませんから、落ちたのやら身に付けておるのやらいっちょん分らんと、言うな事がないでしょうか。まぁそういう私が本当に恥ずかしい事ですけども、本当にあのうもう宝の持ち腐れになっておる、様な思いを先日からさして頂きましたのは。
 ちょうど青年大会の朝、あのう良く今あのうなんですかジャンボ宝くじと言うんですかね、一等なん千万と言う様な宝くじが当たるくじがあるりますが。その宝くじの当たりくじをですよこんな厚さにこんなに私がもっとるんですよ。そして全然そのうそれだけの宝くじを持っておるのに喜びが湧かないと言うんですか、全然浮き浮きしてないんですね、まぁ当たり前の様にして私がその宝くじを持っておるところをあのう頂きまして。ちょうど私達が今合楽のご信心を頂いておると言うのは。
 本当にそれこそ船にも車にも積めぬ程しのおかげを、私達の手中に持っておると言う事なんです。ただそれを互い例えば銀行に行くなら銀行に替えに行くだけに事なんです。昨日の親先生の御理解じゃないですけれど、それこそ油がカンテラの中に一杯ある。後は芯を付けて頂いてその火を点すだけなんだと親先生仰る。お互い本当にそこまでのそれこそ、これも親先生が最近仰る、本当に合楽理念をその気になったものには見やすいんだ。けどなってない人には本当に険しい難しいじゅつない道なんですね。
 それこそあれは徳川家康ですか、人生とは重荷を背負うて山の坂道を登るようなものだ、この世は苦の世苦の世界だとお釈迦様も仰る。私が本当にここでお取次ぎをさして頂いておりますと人生の縮図を見るようですよ、本当に毎日何人かの方が泣きの涙でお取次ぎを願っておられます。それが本当にこの人生の実相でしょうが、本当に信心がないなら何んという術ない、切ないのがこの世の中の実相だと思うんです。そういう術ないそれこそ険しい道を乗り越える、その手立てが合楽理念には説いてあるんです。
 合楽理念と言うのは、アスファルトを敷いて平坦な道じゃない。確かに険しい本当にこれが登れるだろうかと、言う様なところが必ずあるんだ、けど本当にそのそこを登ろうとする者にとっては、間違いなく登る登れる手立てが、それこそみやすう楽しゅう愉快にさえなってくる手立てが、そこに説いてあるんだと言う事を、親先生は仰る訳です。お互いいよいよ見やすいものにして行かなきゃいけない。楽しいものに愉快なものにして行かなきゃいけない。
 もし信心が術ないものであったりしるしいものであったり、重荷になっておるんだったら間違いなくお互いまだ、おかげを願っての信心ですよ。だから本気で親の思いが分かりたい、神様の思いが分かりたい。それこそ親先生じゃないけど悲しいまでもその親の思いが分かりたいと言う信心に切り替えて頂きたい。そしたらそこに本当に神様の思いを、そこにここに聞くことが出来ると私は確信さして頂きます。
 それこそ今日より夏季心行が始まりまして、さぁいよいよというところにすぐ親先生のそれこそ痛みを、私達が痛みとさして頂いて本当にこの一月間お互い、あのう神願成就神様の願いが成就するのがちょっと遠いでしょ。ひとつその神という字を親という字に変えてみてください、親願成就と親先生の願いに本当に添いたいと言う、一月間の夏期信行でありたいと思います。
   どうぞよろしゅうお願い申し上げます。